ビアシャン秘話 ~ビアシャン誕生までの軌跡~ 第一章

衝撃のサザンオールスターズ

 中学3年の時TBSテレビ放映のザ・ベストテンという番組がありました。「今週のスポットライト」にサザンオールスターズがディスコからデビュー曲「勝手にシンドバッド」で登場。今まで耳にしたことのない衝撃のエイトビートは私の音楽感覚を完全に塗り替えて、手にしていたフォークギターはエレキに変わりその後青春時代の音楽はサザン中心に回りました。それぞれのアルバムにそれぞれの思い出がありますが、今聞き返しても1枚目のアルバム「熱い胸さわぎ」はロックンロールありバラードありブギ、レゲエありと、1枚のアルバムにこれだけの音楽を詰め込んだものが他にあるのかなあと思います。

ホークⅡ(ホンダCB400T)

 「単車乗りてぇ~」高校1年の時400㏄のオートバイを買うために夏休みに建築現場でアルバイト、それが初めて社会に出た私の小さな一歩でした。冬休みは大型トラックの助手、春休みはラーメン屋さんで働き16歳の春ようやく中古でホークⅡ(ホンダCB400T)を手に入れました。飲食店でのアルバイトは性に合っていたらしくそのまま高校卒業まで続きました。卒業後の進路は漠然と板前になるのもいいなあと考えていました。友達が板前修業に奈良へ出発する時、何となく羨ましく甲府駅のホームで見送ったことが思い出されます。当時の心境ですがどうしても頭の隅に家業を継ぐということが引っ掛かっていたことは否めません。

農業大学校

 当時我が家では米と肥料の販売をしており肥料会社の甲府所長の勧めもあり山梨の農業大学校に進学することとしました。1年目は現在の北杜市長坂町であまり自由の利かない比較的厳しい規律の寮生活を送りました。この時は今回のビアシャンを造る事など夢にも思っていなかったわけですが農業関連の仕事に就いたそれぞれの仲間が今、ファビュラスな力になってくれていることを思うとこの学校に進んでつくづくよかったなあと実感しております。19歳の有り余っているエネルギーを縛り付けられた苦労もあり、「同じ釜の飯を食った仲間」という言葉は活字以上に実体験でしかわからないものがあるように思います。2年の学業を終え女手一つで家業を守ってきた母を手伝う形で家の仕事に従事しました。

ローレル(Ⅽ230)グロリア2800(330)シーマ(Y31)

 小学校も4年生位になると車に興味をもちだし「カッコいいなあ」と思ったのがスカイライン(ケンメリ)の2ドア。当時の日産の流線形が好きで初めて乗った車がローレルでした。80年代のピラーレスハードトップに憧れ4ドアの窓を全開にした時の開放感はドライブ中春風の心地よさを存分に味わうにはこれ以上ない私のアイテムでした。このローレルは山梨県内外を問わずよくドライブに出かけ後に米の販売が拡張していったとき新たな納入先へ行く道でほとんど困ることなくたどり着け、「人生に無駄なことは何もない」といっていた先人の言葉を思い出しました。この後グロリア、シーマと乗り継ぎ今も「シーマ現象」といわれたバブルの遺産平成2年のシーマを大切に乗っています。

カナダ旅行

 あなたは運のいい人ですか?俗にいう「ついてる」人ですか?ズバリ私は運のいい人です、ついてますと常に言っています。最初にそれを感じたのは23歳の夏ソントン食品工業の「カナダフルーツ街道の旅」8日間20組40名様のプレゼントに当選した時でした。当時シクラメンを栽培していた友達に1週間仕事を休んでもらい一緒に旅行してもらいました。そしてその年の12月今度は私の母がKEY COFFEEの「ピカソを訪ねるヨーロッパ10日間の旅」というプレゼントに当選しました。普段何気なく使っている「ついてる」という言葉。私は思うようにことが進まなかったときいつも自分に言い聞かせます。大丈夫私には守護神が「ついてる」守ってくれているからと。1987年8月にカナダで同じ旅をした方この文面を見たら連絡ください。あの時の旅行の思い出話がしたいです。

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